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理事長挨拶

理事長 福田 量

社会福祉法人野の花学園は、多くの皆様方の温かいご支援により創立から半世紀が過ぎました。
障がいをもつ子の5人の親がわが子の将来を案じて昭和34年に私立の訓練施設を設立したのが始まりです。
学園創立の資金づくりにタオルや石鹸などを行商して回る5人の親の姿が「五つの灯」と題してNHKから全国放映されました。視聴者に大きな反響と日本の福祉の実態が世に知らされることになりました。
多くの方から励ましと支援の輪が広がり、遠くワシントンからも100ドルの寄付とともに激励の手紙が添えてありました。
ノーベル賞作家パール・バックは昭和35年、野の花学園を訪れ、5人の親を励ましました。
「不幸な子をもつことは、決して不幸なことではない。救うことに努力しないことが不幸である。」 この言葉は、5人の親に大きな力となり「わが子を隠す気持ちがあったことを恥じ、自分が親であることを誇りに堂々と胸を張って、障がい者の立派な施設を作ろうと思った」と後に述べておられます。
私ども、この創立の精神に恥じないよう、今後も「一人ひとりの豊かな生活」を念頭に努力してまいりたいと思います。

沿革
 昭和24年春、福岡市で最初の特殊学級が福岡市立草ヶ江小学校にできました。
その父兄会で、障がいをもつ5人の母親たちは初めて顔を合わせました。
不幸な子を持つ母親の苦しみを語り合ううちに5人の気持ちはとけあいました。
子供たちは間もなく9年間の特殊学級を終えましたが、それ以上になると近くに適当な施設がありません。
 昭和32年春、母親たちは知人の家の庭を借りて、5人だけの小さな青空教室、青い鳥学園を開きました。
ここでレンガづくりをはじめたのです。
やはり他人の庭の不自由さ。
カゲグチも知らず知らずに耳にはいり、1年もたたぬうちに教室を閉じなければなりませんでした。
母親たちは、「このうえは自分たちの手で学園を作るより仕方ない」と相談し合いました。
 まず、警官の奥さんが夫の退職金を前借りして、七隈に土地を買いました。
左官屋の奥さんは、夫に壁を塗ってもらいました。
資金づくりに5人の母親は石けんや靴下、タオルなどの行商に回りました。
 昭和34年2月、約50平方メートルの粗末な工場が出来上がりました。
母親たちは「野の花学園」と名づけました。 苦しみに耐えて、やがて花咲く、「野の花」のように、という願いをこめて、・・・・・
 学園発足当初から面倒を見てきた特殊教育の研究に明るい福岡大学 石井 義武教綬は野の花学園の計画に賛同して、各方面に支援をたのみました。
 昭和35年4月、精神薄弱者福祉法が施行されたのは、野の花学園の活動から11年目のことです。
 昭和35年10月21日、石井教授の支援に応えて、アメリカのノーベル賞作家パール・バック女史が野の花学園を訪れました。
「不幸な子をもつことは、決して不幸なことではない。救うことに努力しないことが不幸である。」と、5人の母親を励ましました。
遠くワシントンからの寄付もこれに応えてくれたものです。ワシントンの「おくれた子どもを守る会」(パーリッシュ会長)からの手紙には、「アメリカでも精薄児のための施設は貧弱です。100ドルでは金額は少ないのですが、支援の気持ちを受け取ってください。5人の少年の元気な姿を写真で見せてください。私たちの子どもにもたいへん励みになります」とありました。
 5人の子どもたちは、朝9時から5時まで働き、日に860個のレンガを作る。お母さんは行商のかたわら、買い手をさがす毎日が続きました。
 レンガの評判もよく、工務店の買い手がつきました。工務店のトラックが学園に横付けできない。
レンガのリヤカーを農道まで運ぶ。それから道路まで馬車をやとって運ぶ。
子どもたちの労力と馬車賃、レンガの一時置き場の使用料で費用がかさむ。
 昭和36年4月、5人の母親たちは、将来を考え、思い切ってバス道路の近くに396㎡の土地を買いました。
購入費は60万円。昨年11月に福岡市岩田屋デパートで開かれた秋山庄太郎写真展の益金75,250円全額と同氏のカラー写真1点が贈られましたが、その寄付金がきっかけになりました。
足りない分は5人の母親が分担しました。
秋山 庄太郎氏の話(西日本新聞昭和35年11月25日朝刊)
「東京の精薄児施設で痛々しいこどもの姿に強く胸を打たれ、それいらい不幸なこどもたちのことが忘れられなくなった。こんどフランス、イタリアを回ってこうした施設を見たが、外国の社会保障の充実ぶりをみるにつけ、日本の不幸なこどもたちに、せめてわずかな援助でもしたいと思いたった。こんごできるだけ多くこうした催しをしたいと思っています。」
 5人の母親たちが細々と経営していましたが、「個人の力による社会事業には限界がある。組織を変えて、不幸なこどもを一人でも多く収容しよう」という意見が母親たちの間に高まり、石井義武福岡大学教授らを中心に準備が進められました。
 この話にロータリークラブ、ライオンズクラブ、青年会議所などが積極的に乗り出し、「社会福祉法人」に組織替えするのが一番望ましいが、さし当たって、 「財団法人」として寄付金を集める。敷地、建物を現在の4倍の広さにし、収容者も20人以上とする、具体案をまとめました。
 昭和38年6月、財団法人野の花学園認可。
 昭和40年9月、社会福祉法人野の花学園認可。
 昭和45年5月29日、芸能人の慈善団体「あゆみの箱」(代表理事 伴 淳三郎) から伴 淳三郎と世志 凡太が第二野の花学園を訪れ電気オルガンを寄贈。同年3月に第二野の花学園を訪れた時の約束を果たしたもの。伴さんは、九州各地の公演先で、バケツを持って資金カンパを集め、集まった1万8千円にポケットマネーを足し、電気オルガンを買ったのです。
 この時、大喜びの子どもたちを見て、伴さんは「この次は歌を作ってあげよう」と約束しました。
 昭和45年6月29日、伴 淳三郎さんが5月に第二野の花学園を訪れ電気オルガンを寄贈したときに約束した「野の花学園の歌」が完成しました。
 作詞:世志 凡太・作曲:森岡 賢一郎・歌:伊東 ゆかり

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